文章を書くのが好きな僕が、「ライター」に向いてなかった理由
「ライター」という職業があります。文章を書いて、お金をもらう仕事です。
ライターにも色々と種類がありますが、ここでは「webメディアのライター」や「雑誌のライター」なんかのことを想定しています。やったことがないのでよくわからないですが、たぶん「コピーライター」でもある程度同じようなことが言えるんじゃないでしょうか。つまり、ライターになるには、文章を書くのが好きなだけじゃ不十分だということです。
僕はこうしてブログを書いているくらいですから、文章を書くのは結構好きだし、どちらかと言えば得意だと思うんです。そんな訳で、とあるwebメディアが「ライターのアルバイトを募集します」という求人を出しているのを見た僕は、とくに考えもせず、なんの気なしにライターに応募、ライターをやることにしてしまったのです。
そもそも「文章を書くのが好きな人」ってなんだ?
文章を書くことは、自分の頭のなかにあったアイデアや思いつきを文字にして残す作業です。小学生が作る漢字の書き取りノートのように、ただひたすら言葉を書き連ねたものを、ふつう文章とは言いません。小説やなんかでは技法としてそういうのもあるかも知れませんが、基本的に文章は意味が通ったものでなければいけないのです。
ですから僕は、文章を書くのが好きな人=考えるのが好きな人だと思ってます。
考えるのが好きだから、一旦文章を書き終えると、今度は推敲の作業を始めたりします。より良い文章、より伝わる文章を書きたいのです。同じ語尾が何回も続かないように直したり、単語の選び方に気を配ったり。やろうと思えばいくらでも工夫できます。
ライターに求められていること
個人の場合、多少過激なことでも書きたいことはなんだって書いていい訳です。そのせいで自分に不利益があったとしても、それは自己責任なので仕方ありません。
ところがライターは違います。ある媒体に載った記事が問題になった場合、記事を書いたライターだけでなく、記事を載せたメディアまで叩かれることになるので、物議をかもすような話題には手を出したがらないです。また、メディアのコンセプトに合わない記事は、どんなに面白くても掲載されません。
単語のチョイスを制限されることもあるし、記事の構成にも口を出されます。ライターは、自分の好きなことを好きなようには書けません。
ライターが書いてもいいのは、無難かつメディアのコンセプトにあった記事だけなので、メディアのコンセプトに賛同できないとかなり辛いです。コンセプトを確かめずに応募してしまうと、採用されてから困るので注意した方がいいでしょう。僕はちゃんと確かめなかったせいで失敗しました。
おそらく、朝日新聞的な思想の持ち主が産経新聞の記者になったら辛いことになると思うのですが、それと同じです。僕にとって、文章を書くこと=考えることなので、自分が思ってもない意見や価値観で文章を書くのは拷問に等しく、まったくモチベーションが上がりませんでした。文章はノリノリで書かなきゃいかんのです。
価値観の合わないメディアに雇われてしまった場合、モチベーションが上がらない状態で、それでも仕事だから書かなきゃいけないんだと魂を削って無理やり書く訳ですが、そうして出来た記事はつまらないものになります。
普通のバイトが時間の切り売りだとすれば、価値観が合わないメディアでのライター業は魂の切り売りです。時給制ではありませんが、当然時間だってかかります。その割に大して稼げません。
ライターの心構え
以前、「コピーライターは惚れっぽい。企業や商品の良いところをすぐに見つけて惚れる」んだよ、みたいな話をどこかの本で読んだ覚えがあります。たぶんコピーライターが書いた本です。
コピーライターに限らず、文章を書いて発信する立場の人間なら誰だって、読者のことを考えなければいけません。読者が求めているものを考えて、それを作るのです。それに加えて、コピーライターなら相手企業、フリーライターなら記事を掲載してくれるメディアのことも考える必要があります。
もしかすると、この辺りに「メディアはコミュニケーション」だと言われていることの秘密が隠されているのかも知れません。自分の意見を言いたいだけの人に「ライター」は務まらないのです。自分にお金をくれる人たちと一緒にどんなものを作っていくかすり合わせないといけないので、やっぱりお互いの価値観が合ってないと辛いです。
僕の場合、価値観がまったく違う企業に雇われてしまったのがいけませんでした。ライターに限らず、仕事選びで大切なのは、雇用主の価値観が自分に合っているかどうかなんじゃないかと思います。マジで反省したので、以後気を付けます。