「日本の反知性主義」の、高橋源一郎の部分だけを読みました
日本の反知性主義は、内田樹が中心になって、何人かに書きたいことを書かせた本です。
そもそも反知性主義という言葉自体、なんだかフワっとしていて実態がよくわからないのですが、この本には寄稿者が複数いるため、それぞれが勝手なことを言っております。中には正反対のことを言っているような例もあり、本を読んでも反知性主義のことについてわかるようにはなりません。
Amazonのレビューにもありましたが、「反知性主義とはなんぞや」をきちんと知りたい人は元ネタである「アメリカの反知性主義」あたりを読んでみた方が良いかも知れません。
それでも僕がこの本を読んでみたのは、寄稿者の中に、僕が敬愛する高橋源一郎大先生がいらっしゃったからです。高橋源一郎が語る話なら聞いてみてもいいかも。と思ったので、僕は源一郎のためだけに買いました。
高橋源一郎大先生の簡単な紹介
そもそも、高橋源一郎って誰だよ、と思っている人がいるかも知れないので説明しておきます。
高橋源一郎は小説家です。最近は明治学院大学で先生をやってます。
小説では、ジョン・レノン対火星人とか、さようならギャングたち辺りが有名なんじゃないでしょうか。
そういえば昔、何かの雑誌の特集で、鳥居みゆきが好きな本として「ジョン・レノン対火星人」を挙げていました。
また、「さようなら、ギャングたち」は、評論家の吉本隆明に、
「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う。村上春樹があり糸井重里があり、村上龍があり、それ以前には筒井康隆があり栗本薫がありというような優れた達成が無意識に踏まえられてはじめて出てきたものだ」
と言わせたほどの作品です。
両方共めちゃくちゃ面白いので、ぜひ読んでみてください。
源一郎先生のちょっとしたトリビアとして、
・女癖が悪く、結婚したり離婚したりを5回くり返してる。
・若かりし頃は革命家を目指していたため、刑務所にぶちこまれた。
・灘校の卒業生で、中島らも大先生の2学年先輩。
と言ったものがあります。僕としては、あの頃の灘校に通っていた連中がうらやましくてたまりません。
まあ、要するにパンクでかっちょいい小説家だということだけわかれば良いんです。
反知性主義は、「バカって言ったやつがバカ!」と似てる
本題に移ります。
源一郎先生は、
反知性主義について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあ何について書けばいいんだろう、と思って書いたこと
という非常に長ったらしいタイトルの小論を書きました。
非常に長ったらしいですが、ポイントは抑えてあります。
大体、反知性主義って言葉は自分の気に食わない奴に向けて、
「お前は反知性主義だ!」と言うために使う言葉なんですよ。
内田樹なんて、「おれが一緒にいてワクワクしない奴は反知性主義者!」といったことを大まじめに語ってました。反知性主義なんていうのは、そんなもんなんです。
こういった反・反知性主義者に対し、源一郎先生は
「人に向かってアホ!と言うやつがアホだって話、あれ、真理だよね。」
「「反知性主義」という言葉を使ってしまうと、自分もまた、「反知性主義」ウイルスに感染してしまう気がする。」
と言って批判します。
ところが、「反知性主義について書いてくれ」と頼まれた以上、なにかしら書いてみないことには仕方がありません。
じゃあ何を書くか。
源一郎先生は迷った末、反知性主義の反対、すなわち知性的なものについて考えてみることにしました。
知性=歪みを見つけること
そんな源一郎による、知性の定義がこれ。
「歪み」を見つけること、そして、その「歪み」を描くこと。それが「知性」だ。「歪み」が見えることを、「知性」がある、っていうんじゃないかな。」
そしてこの、「歪み」を認識する能力は、社会の少数派にこそ備わっているのだと主張します。
なぜなら、少数派は多数派の人たちとはモノの見方が違うから。
だから、多数派がつくる大きな意見の塊を前にしても、瞬時にそれは違うんじゃないかな、と思うことができるんです。
女性的であることが必要
いまの社会は男の論理で動いています。
例えば源一郎は、爆弾を落として敵をやっつけようと考えるのが男で、爆弾を落とされる側のことを考えてしまうのが女だと言います。
ここでいう男・女は、実際の性別に関わらず「男性的=論理、競争」「女性的=共感、生活」みたいなイメージで言っているんだと思います。
今の世の中は男性的な論理が中心になって動いているので、その中にある少数派=女性的な人は「歪み」を認識できる。
だから、「知的」であるためには、女性的であることが必要なんじゃないか。という理屈です。
実際多数派の人たちは「歪み」を歪みとして認識できない傾向が強いのも事実なんですが、正直に言うと、僕はこの辺りから「おれたちは少数派だから世の中の歪みを見つけることができるけど、お前ら多数派はバカだから見えないよね」みたいなモノを感じてしまいました。もうちょっと上手い言い方は出来なかったのかなあと思わんでもないです。
ですが、僕はこれを読んで、僕が佐藤優に代表される教養オヤジを好きになれないのはなぜなのか。
あるいは、僕が太宰や中島らもを好きなのはどうしてなのか、腑に落ちました。
つまり僕は、独善的でオラオラしてる人より、ある種の弱さを持っている人に魅力を感じるんです。
要するに、日陰者が好きなんですよ。