【11-12】ジョージ秋山の「銭ゲバ」を読みました。
結構古い作品です。
1970年から71年にかけて、少年サンデーで連載されていました。2009年にドラマ化もされていたのを覚えている人も多いかも知れません。
基本的には、「お金」のためなら何でもやる主人公が、人殺しと謀略で成り上がっていくお話です。
感想
主人小の蒲郡風太郎(がまごおり ふうたろう)は、幼少期に母を病気でなくしました。医者にかかるお金がなく、クスリを売ってもらえない。お金があれば、母は死ななかった。だからおれはお金持ちになる!という理屈で、「お金」に執着するようになったのです。
大昭物産という会社の社長に当たり屋のようなことをして取り行るのですが、なんやかんやで副社長まで登りつめるとその社長も殺します。とにかく殺します。自分の利益のためなら人殺しも辞さないのが、銭ゲバなのです。
確かに、「お金」のためならある程度の殺人は効果があると思うんです。実際、風太郎の殺人にも、風太郎の倫理・論理からすればある種の妥当性があるケースもありました。でも、妥当じゃない殺しもやってます。自分を追っている刑事の息子をひき逃げしたり、純粋だと思っていた女子高生が純粋ではなかったので殺したり。で、そういった意味のない行為が後々になって自分の首を締めるわけです。
風太郎は、慈善団体に多額の寄付をします。「愛の人」だと思われるためです。それ自体は賢いと思います。アメリカなんかだと、金持ちはみんな寄付に熱心ですし、イメージ作りは大事なんでしょう。
ところが、自身の会社の工場が水俣病的な公害を引き起こした際には、命より金の方が大事だと言って、公害対策には全く手を打ちませんでした。その結果、世間に叩かれました。
僕だったらそんなことはしません。現代的な基準なのかもしれませんが、「愛の企業」だと思われた方が「得」なんじゃないかと思うんです。
「本当に悪い奴」だったら、風太郎みたいな行動は取らないはずです。
風太郎は、「お金が第一」と言いつつ、お金にならないことをしています。矛盾を感じます。
結局、風太郎は愛が欲しかったのかも知れません。
遠藤ミチロウの解説
今ふつうに市販されている版にあるかは不明ですが、僕が持っているソフトマジック版の「銭ゲバ」には遠藤ミチロウの解説がついていました。
遠藤ミチロウは80年代のパンクバンド、スターリンのボーカルです。
「銭ゲバ」は、そんな遠藤ミチロウが19歳のときの漫画でした。
愛は金で買えるか?という疑問にそんなことはない!と反発を覚えながらも、「自分がなにをしていいのかわからなかった」という若き日の遠藤ミチロウは、痛快さと嫌悪感をまぜこぜにしながら「銭ゲバ」を読んでいたそうです。
彼は、解説を書くにあたって30年ぶりに銭ゲバを読み返し、「銭ゲバ」には、かつての遠藤ミチロウに衝撃を与えたような力が今でも残っているだろうかと考えました。高度経済成長期とバブル景気を経過し、失われた20年を経た現在。お金は「マネーゲーム」の道具になり、リアルさを失いました。
風太郎は信念をもって「金」に執着しますが、現実の資本主義には「信念」なんてありません。
そんな時代にも、1970年の遠藤ミチロウに衝撃を与えたような力が「銭ゲバ」に残っているか?という疑問は、19歳の若者に読ませてみれば一発でわかります。きっと、今の若者は銭ゲバに嫌悪感を抱くことはないだろう。銭ゲバは、資本主義の旧約聖書なんだ。
僕は21歳ですが、まあ19歳みたいなもんでしょう。
遠藤ミチロウが言うとおり、僕は銭ゲバにリアルさを感じなかったし、嫌悪感も抱きませんでした。
風太郎は哀しい奴だとは思ったけど、それだけです。
僕は、ある種の「純粋」さを失ってるのかも知れません。それが良いことなのか、悪いことなのか、僕にはわかりません。ですが、遠藤ミチロウが言うとおり、銭ゲバはかつての「力」を失ったのだと思います。
新約聖書はなんだろう?
ところで、資本主義の旧約聖書が銭ゲバだとすれば、新約聖書はなんなんでしょうか。
僕が思うに、新約聖書は「ファイト・クラブ」かも知れません。
ファイト・クラブは1999年の映画です。僕が初めてファイト・クラブを見たのは、偶然にも19歳でした。
資本主義的な、物質的な生き方を否定し、自己破壊を求める男たち。カッコいいですよね。
ですが、僕が銭ゲバにピンと来なかったのと同じように、2030年の19歳はファイト・クラブにシビレないかも知れません。19歳の若者がファイト・クラブにシビレなくなった世界が、どんな世界になっているのか。2030年くらいなら僕も余裕で生きてるはずですから、見届けたいと思います。