「社会問題の社会学」を読んだので、構築主義とは何か整理してみた
「社会問題の社会学」は構築主義の入門書です。
前半部で構築主義に至るまでの歴史、考え方などを示したあと、後半では「有害コミック論争」について構築主義アプローチで迫った中河伸俊らの研究について解説しています。
中河伸俊自身が書いた「社会問題の社会学」とタイトルが同じなのでややこしいですが、こちらは赤川学の本です。値段半分でページ数は3分の1なので、「構築主義ってどんなもんなのかな」くらいの人には丁度いいと思います。
以下、構築主義とはどんなものなのか、僕なりに整理してみました。
パンクな構築主義
構築主義では基本的に社会問題を扱いますが、なかなかパンクなやり方をします。例えば、上野加代子・野村知二は「児童虐待の構築」で、
「児童虐待の深刻さを語る人が増えてるけど、あれって本当は「児童虐待」の定義が変わってたり、児童虐待の深刻さを表す統計にしたって多様な解釈を封じ込める形で人々を説得するための道具として使われてるんじゃないの?」
みたいなことを言ったりしております。
こうした研究は児童虐待の問題を解決しようと思っている人たちにとっては聞きたくもない話かも知れませんが、構築主義的には極めて模範的なやり方なのです。もちろん児童虐待は無ければ無い方が良いのは当然ですが、社会問題の社会学で大切なのは、そう言った感情論でもなければ解決策を考えることでもありません。
構築主義の研究は言語学の研究に似ている
言語学者が会話の研究をするとき、彼らはネイティブスピーカーが適当とみなすような発言を構成するルールを発見しようとするのであって、発話者が次にどんな発言をするか予測しないし、その発言の規範的妥当性を問うこともありません。
社会問題の社会学の研究も、それと同じように、ある社会現象が社会問題であると主張する人たちの活動=クレイムの「形式」の特徴や正否、歴史を記述し、説明することを目指しています。
構築主義は、とあるクレイム申し立て活動が他のクレイム活動との相互作用の中で継承されたり批判されたり最定式化されるのはなぜか、ということを歴史的に説明することを通じ、社会の仕組みと特徴を解き明かそうとするものです。
社会問題の定義
一口に社会問題と言っても、時代、地域、あるいは人によって何を「社会問題」とするかは変わってきます。にも関わらず、それらが「社会問題」という同じカテゴリに括られているのはなぜなのでしょうか。
マルコム・スペクターとジョン・キツセは、社会問題の構築主義を定式化するため、社会問題とは……のような状態である、といった考え方を捨てて、社会問題を、「それが存在すると主張し、それが問題であると定義する人々による活動」として定義することを提案しました。
これは、機能主義のように社会学者だけが「何が社会問題であるか」を知ることが出来るといったようなスタンスを取ることもなければ、ラベリング理論のように「逸脱が先か、行為が先か」という逸脱の原因論を問う必要もありません。
構築主義の利点
分析の対象が明確になる。
社会問題とは、なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動である」という考え方をする構築主義では、ある事柄に対して何らかの言説を唱えている人たちの意見を検討・研究していけばいいので、分析の対象がわかりやすくなります。
また、構築主義では現象に対するクレイムの申し立てさえあれば、どんな内容であっても研究対象になり得えるので、UFOや霊魂、陰謀など実在の確認さえとれない現象も扱うことが出来るのです。とっても柔軟な手法だと言えます。
研究上の課題も明確化する。
構築主義では、「人々が行うクレイム申し立て活動が問題をどのように定義しているか。そこにはどのような特徴があるか。ある人たちによってなされた定義が、いかにして他のグループに引き継がれ、展開していくか」ということに着目して研究します。
さらに、ある人々の定義に反発するグループが登場すると、そこにはどのような相互作用が起きているか。クレイム申し立て活動や言説のレトリックには、どのようなバリエーションや流行があるか。それらはどのような制度的文脈で利用されるのか。こうした研究課題を経験的に調べるのです。
「事実」や「統計」でさえ、社会的に構築されたクレイム申し立て活動の一環であり、それが社会問題のフィールドでどう活用されているのかを調べればよいのです。
構築主義を誤解した人たちからは「構築主義は問題解決を求める人達の活動を揶揄し、しかも自分自身は当の問題に何の価値判断も行わない卑怯者、そして問題解決のために何の行動もしない邪魔者」に見えてしまうこともあるようですが、一つのやり方として、構築主義には他の方法には還元できない特徴や利点があるのだと言えるでしょう。
2015/3/4 追記
冒頭で「構築主義の成功事例」として紹介した、上野加代子・野村知二の『児童虐待の構築』について、以下のような指摘を受けたので掲載しておきます。こういうことがあると、ブログをやっていて良かったなあと思います。色々と勉強になるので嬉しいです。
そうそう。なので、どこかの誰かさんのように、お前らのクレイム申し立て活動のやり口は汚いんだよと憤るのに使うのは誤用なのよ (^_^;) 「社会問題の社会学」を読んだので、構築主義とは何か整理してみた – no color times http://t.co/suZnX7KSH8
— 小林正和 (@kobayashi_masa) 2015, 3月 4
但し、上野加代子・野村知二『児童虐待の構築』自体もクレイム申し立て活動と解釈することができるようで、そのような指摘をしている書評もあります。
— 小林正和 (@kobayashi_masa) 2015, 3月 4
このブログの記事で、上野加代子・野村知二『児童虐待の構築』が挙げられているのは、赤川学『社会問題の社会学』の中で社会構築主義の研究で成功した事例として、上野加代子・野村知二『児童虐待の構築』が挙げられているから。
— 小林正和 (@kobayashi_masa) 2015, 3月 4
僕が「児童虐待の構築」を紹介した理由については、ツイートの通りです。
尚、問題の書評は奈良教育大学の杉井潤子さんによるもので、こちらから読むことができます。
さて。
彼女は「児童虐待の構築」自体の内容については、「説得力があり、見事だ」と賞賛しています。ところが、「説得力がある」故に、児童虐待の構築それ自体が新たなクレームを生み出していると指摘。
本書は社会構築主義アプローチに則って<児童虐待>問題がいかに構築され,その過程において家族が射程に取り込まれていくことを批判的に検討した。そのこと自体,いいかえれば本書そのものが,見方を変えれば,<児童虐待>に対する行政や現場の理解,対 処の方向性や援助のあり方そのものにクレイムを申し立てていると理解できる。
のだとしています。
自分では読んでないのでなんとも言えないのですが、確かに「児童虐待の構築」自体がクレイム申し立て活動であると考える人がいても不思議はありません。そうなるとまた、「クレイム申し立て活動」を分析して生まれた研究が、新たな「クレイム申し立て活動」を生んだことになる訳で、なんだかややこしいですね。
とりあえず、早いうちに中川伸俊の「社会問題の社会学」を読んでみて、もっと構築主義について理解を深めていきたいと思います。